「横浜水道みち」を自由研究としました!

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横浜水道みち案内図

目 次

1  横浜水道みちの歴史

2  道志川水系の水源を守る取り組み
..1)水源林の働き
..2)水源林の現況と活動内容

3  横浜水道みちのまとめ



自宅の近隣に「横浜水道みち」と呼ばれる緑道があります。

「横浜水道みち」を調べてみると、横浜市の水道事業として道志川の水を相模原市緑区青山にある「横浜市水道局青山水源事務所」から1㎞上流の「鮑子(あびこ)」で1日172,800㎥の水を取水し、横浜市旭区上川井町「川井浄水場」を経由して横浜市保土ケ谷区川島町「西谷浄水場」に送水しています。

「横浜水道みち」の地中には、横浜までの給水管(直径1.5m)が埋設されているのです。

浄水場に送水された水はろ過されて水質確認を行った後に市内の配水池に貯えられ、そこから各戸に水道管で送られます。

もともとは、明治20年イギリス人技師ヘンリースペンサーパーマーの技術指導により国内で初めて鋳鉄製の水道管が「津久井郡三井村」~ 「横浜市西区野毛山」まで敷設されました。

明治時代に敷設された水道管ですから「米軍相模原住宅」の敷地を通っていることも頷けますね!

夏休みの自由研究として「横浜水道みち」についての歴史を調べてみました。

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横浜水道みちの歴史

今日、人口374万人を超える大都市になった横浜市の歴史は、日米和親条約から5年後の1859年(安政6年)6月2日、横浜村が開港場(かいこうば:外国との貿易に使用される港)となったことから始まります。

当初100戸余りの海辺の横浜村が横浜町となり、日本の新しい玄関口として世界中の人々が集まる大都市への道を歩み始めたのです。

小さな横浜町は、国内をはじめ、世界中から集まる外国の人々のために大規模な埋め立てを行い、横浜は都市化します(1886年・明治19年105,205人)、
人口が急速に増え始めた横浜町は1889年には横浜市となります。

急速に発展し始めた横浜の地はもともと海や沼を埋め立てた土地ですから、井戸を掘っても塩水ばかりで飲料水を得ることが出来ないため、横浜の人々は「水」に苦しみました。

明治政府が外国人居留地にあてた埋立地は、上下水道の衛生状態が劣悪で、外国船から持ち込まれた「コレラ」「赤痢」「チフス」などで汚染された生活排水が井戸水を汚染したため、患者数が爆発的に増加したのです。

当時、飲料水として利用できる井戸は2ヶ所しかなかったと言われており、長い行列の末に苦労して水を汲んだり、水売り人から水を買うなど柄杓1杯の水がとても貴重品でした。
(1882年・明治15年 水売り249人)

1873年(明治6年)には水不足解消のため、木の樋(とい)を利用した水道が横浜商人によって事業化され、多摩川の稲毛川崎ニヶ領用水(かんがい用水)から水を取水し、地中に木製の樋(とい)を埋めて水を通し「水道井戸」から汲みあげて使うものでした。


しかしながら、この水道は途中で水が漏れたり、塩分を含む生活排水などが混入したため、飲料水として安心して利用することが出来きないため、会社の経営は行き詰まったのです。

水道事業は神奈川県庁に引き継がれ改良工事が行なわれたものの飲料水として利用できる状況にはなりませんでした。

水不足に苦しんだ横浜の人々は、水質の悪い井戸水や川の水も利用したため、明治19年にはコレラが大流行(3,107人が感染)、横浜に居住する外国人も日本人も「安心して飲める水」「美味しい水」「きれいな水」の確保が切実な願いだったのです。

水や伝染病に苦しんだ横浜の人達から、当時ヨーロッパやアメリカで用いられている新しい方式の水道設備を敷設して欲しいとの要望が高まり、神奈川県知事・沖守固(おき・もりかた)氏が水道設計の指導を求めたのが、イギリス人技師ヘンリースペンサーパーマー(イギリス)氏です。

パーマーは、実地調査の上、相模川と道志川が合流する付近を水源として、およそ44km先の野毛山に建設される「野毛山浄水場」まで、地下に水道管(鋳鉄管)を通すというもの。

1885年(明治18年)に着工し1887年(明治20年)10月に工事を完成させました。
日本初の近代水道の始まりです。

(注)
日本初の浄水場は当時の関内・関外を見下ろす「野毛山」に創られましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受けたため、浄水場から配水池に創り変えられました。

パーマが作った水道は、安心して飲める水を横浜まで送り届けるため、大規模な「ろ過」装置を設置し、水に圧力かけて鋳鉄管に送り込みますので、高低差の激しい横浜までの地形においても、蛇口をひねればいつでも水を使うことが出来る様になりました。

いつでも、欲しいだけの水を「獅子頭共用栓」(ししがしらきょうようせん)の蛇口をひねるだけで手にいれられることが、家庭生活に及ぼした影響は計り知れません「つらい水汲みの労働」「伝染病(コレラほか)」から横浜の人々が解放されたのです。

当時とすれば画期的なことで、まさしく文明開化の到来です!



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近代水道の導入以降、コレラ感染人数が大幅に減っています!

年度
明治
横浜市
人口(人)
コレラ
感染者(人)
10年 62,350 720
11年 69,506 31
12年 63,788 812
13年 71,069 11
14年 67,584 10
15年 77,688 1,389
16年 69,525 4
17年 78,891 5
18年 90,430 202
19年 106,205 3,107
20年 114,981 6
21年 118,947 6
22年 121,985 4

※~明治10年までが水売りと木樋水道の時代
※明治20年10月~近代水道

このほか、近代水道が本格的に稼働したことで、従来・火災が発生した時には、家を壊して延焼を食い止めることが主でしたが、水道水を利用して消火活動ができるようになったのです。

横浜の水道は、大正12年の関東大震災や第2次世界大戦(昭和16年~)を乗り越え、必要に応じた施設改修をしながら、現在でも相模原市緑区にあります「青山沈殿池」で処理された水を高低差を利用した自然流下でポンプも使わずに西谷浄水場まで送られているのです。

・青山沈殿池:標高143m
・女子美術大:標高103m
・川井上水道:標高093m
・西谷浄水場:標高072m

※相模原市「女子美術大学」側の横浜水道
大型看板に記載されています
アイキャッチ画像参照

ヘンリースペンサーパーマー氏は、まさに日本の近代水道創設の父ですね!

※横浜市の1日の水使用量1,955,700㎥
道志川、相模湖・馬入川・企業団酒匂川、
企業団相模川の5系統の計になります。

「獅子頭共用栓」とは?

  • 当時は「噴水栓」と呼ばれていた様です。
    水道創設当初、市内で人の集まりやすい道路の交叉点近くに設置され市民が利用しました。

    イギリスから輸入した共用栓は鋳鉄製で高さ107cm、水圧6.0kg/㎠、横にあるハンドルを回すと給水され、ハンドルから手を放すと自動的に給水が停止される自閉式になっています。

栓獅子頭共用栓

道志川水系の水源を守る取り組み

道志川の上流、山梨県南都留郡道志村(みなみつるぐんどうしむら)には横浜市水道局の「道志水源林」2,873㌶を監理しています。

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・1
水源林の働き

  • 雨水を貯える
    森林土壌は樹木の葉や枝が何年にわたって堆積するため、厚い腐食層を形成します。

    この腐食層がスポンジの様に吸湿性が高いため、自重の数倍の水を吸い込み多量の雨水を腐食層に蓄えるできる。
  • 水を浄化する
    森林に降った雨は、保水能力の高い森林土壌層に吸収され、時間をかけて地中に浸透されるために不純物がろ過され良質な地下水となります。
  • 洪水を防ぐ
    地下水は再び湧き水となって地上に現れ、河川に戻ります。
    山々の森林に保水能力がないと、降雨は瞬時に河川に流れ込みます。
    水源涵養林は雨水の河川への流出量を調整し土砂の流出や洪水を防ぐ機能を持っているのです。

・2
水源林の現況と活動内容

横浜市が所有する水源林の面積は2,873㌶で道志村総面積7,957㌶の36%にもあたります。
ヒノキを中心とした人工林が762㌶(27%)、ブナ・モミ・ツガなどの天然林が1,799㌶(73%)になります。

道志水源林の約27%を占めるヒノキを中心とした人工林は、植林後の手入れが不適切ですと腐食層の保水能力が減少するため、下草刈り、枝打ち、間伐など森林保護育成作業を行い、樹齢・樹高の異なる樹木により構成する「複層林」や針葉樹と広葉樹が混生する「混合林」など、「水源涵養機能」(すいげんかんようきのう:森林が雨水を蓄え、育み、守っている働き)を高める効果的な方法を取り入れながら管理しています。

  •  道志水源林ボランティア制度
  •  道志の森インストラクター制度
  •  水のふるさと道志の森基金

横浜市は上記の活動を行うことで「道志水源林」を守り、清潔でおいしい水を市民に供給しています。

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横浜水道みちのまとめ

横浜の人々にとって「横浜水道みち」の完成はまさしく「文明開化」の到来でした。

ヘンリースペンサーパーマー氏が設計・指導した水道設備に改修・改良・新規設備の設置を重ねながら、現在も「横浜水道みち」が横浜市に水を給水していることに、過去の積み重ねの上に現在があることがわかりますし、横浜市が行っている「道志水源林」を守る取組みについても、現在の積み重ねの上に未来があることがわかります。

「横浜水道みち」を夏休みの自由研究にされるお子さん達はぜひ、家族と一緒に「青山水源事務所」「西谷浄水場・水道記念館」の見学をして下さいね!

さらにお時間があれば「道志村」にも立ち寄ってくださいね!、村営の温泉「道志の湯」「道の駅」でゆったりできます。



青山水源地は時代を感じさせる現役の施設で、1㎞ほど上流にある鮑子取水口で取水された水が「青山隧道」トンネルを通って運ばれ、最初に流れ込むのが排砂池。

こちらで落ち葉やゴミを取り除かれた後、「混薬水路」と呼ばれる設備で水をジグザグに流してながら消毒用の薬剤を混ぜ、5つの沈殿池で細かな不純物を取り除かれます。

高低差がある地形を生かしてほとんど電気を使わずに水を流しているそうです。

「青山水源事務所」を見学すると、この様なことを職員が説明して頂けます。

青山ずい道

排砂池

沈殿池

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「西谷浄水場・水道記念館」(相鉄線上星川駅下車徒歩約15分)を見学しますと、横浜水道の歴史をパネルなどで学ぶことが出来ますし、実際に使われていた「木樋水道」「鋳鉄管」「獅子頭共用栓」「水道弁」の実物も見ることも出来ます。

水道記念館の庭にあります「獅子頭共用栓」は水が出ますから試してくださいね!


相模原市の方で「横浜水道みち」の近くにお住まいの方でしたら、お子さんと自転車に乗って、「女子美術大学」側の「横浜水道みち」に向かいますと「横浜水道大型史跡案内板」「水道みちトロッコの歴史 NO9下溝の案内看板(麻溝)」「100m杭」「km杭」「鉄柵に囲まれた制御弁」を確認することができます。

  • 180Y.W.W:180×100m=18km(三井用水取入所からここまで18km)
  • Y.W.W:YOKOHAMA WATER WORKS


水道みちトロッコの歴史 NO9下溝

トロッコの歴史 下溝

女子美周辺 制御弁

また、南町田周辺では「境川」を渡る横浜水道ほかの給水管4本(横浜市水道局境川水管橋)を見ることができますし、「銀河歩道橋」(国道246号線)を渡りますと平成17年(2005年)町田市が設置したモニュメントと「獅子頭共用栓」を確認することができます。


横浜市水道局境川水管橋獅子頭共用栓 町田市モニュメント

このモニュメントの左下に、獅子頭共用栓に並ぶ人々の写真が掲載され1945年(昭和20年)撮影と記載されています、
近代水道の完成は1887年(明治20年)ですから、設置から約58年経過した終戦の年においても現役で活躍しているとの事実は驚きですね!

お子さんと自転車で散策したあと、「青山水源事務所」「西谷浄水場・水道記念館」を見学しますと、夏休みの自由研究もばっちりです。



青山水源事務所
・所在地:相模原市緑区青山3482

・アクセス
①橋本駅から三ヶ木行
……三ヶ木バスターミナルより徒歩30分
②橋本駅から新小倉橋経由三ヶ木行
……青山バス停留所より徒歩10分
・見学時間
……午前:09:30~2時間程度
……午後:13:30~2時間程度
TELによる申し込み方法
……見学希望日の7日前まで
……第2土曜日は見学月の前月15日まで
……水道局お客さまサービスセンター
……電話番号:045-847-6262

西谷浄水場・水道記念館
・所在地:横浜市保土ケ谷区川島町522
・TEL :045-371-1621

・アクセス
①相鉄線「上星川駅」下車徒歩15分
②相鉄線和田町駅下車 
……相鉄バス 「浄水場前」下車
・駐車場ナシ
・開館時間:9:00~17:00
横浜水道記念館の見学は自由にできます

以上
「横浜水道みち」
を夏休みの自由研究としました! でした

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